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志村けん「ken’s blog」がlivedoor blogからアメブロに引っ越ししていて驚いた

人生、生きていくうえで、自分がこれがしたいと思って取り組むことあると思います。しかし上手くいかず、でも、有言実行でそれに拘って迷走することあると思うんですよね。

と言ってみた。で、本題。

何かを調べようと検索していたら 志村けんブログがアメブロに引越ししない理由! 「livedoor Blogを信頼している」 という記事に出会いました。

記事を読んでいくと志村けんさんがlivedoor Blogをを利用していると思ったので、ブログ名「ken’s blog」でgoogle検索していみると「志村けんオフィシャルブログ」が一番最初、トップに表示されています。

それとは別に検索した結果、ken’s blogという名前にブログやサイトの数の多さにも驚きました。

それで、「志村けんオフィシャルブログ」をクリックする前にリンク先をよくみるとlivedoor blogじゃなくてamebloになっているじゃありませんか!!

とりあえず、リンク先をクリックして確認したところ、確かにアメブロに引っ越ししていたようです。

ken’s blog

記事を読むとわかるのですが、昨今アメブロを使う芸能人が多いなか、アメブロではなくlivedoor blogを使い続けているいう内容の記事なんです。

だから、この記事を見た後にアメブロに移動している事実を知って笑ってしまいました。

最初この事実を知った時、昔言ったことがあとあとまで残るネット社会は、面倒くさい部分もあるなと思ったわけで・・・

どのブログサービスを利用しようが私には関係ないのですが、時代や流れによって柔軟に対応していくのがいいのだろうなと思います。

ブログは、本人とは別の人や組織が運営していると思うので、実質ブログを運営している人や組織にとって損得や管理において、色々総合的に判断してブログを引越ししたんでしょう。

たぶん、志村けんさんが、このブログのシステムがすごいとかデザインが作りやすい、HTMLやCSSをカスタマイズ出来るからいいよね。なんて技術的なことはわからないと思うので、本人からしたらこのブログでやろうなんてこだわり自体ないんでしょうね。

「103万円の壁」の報道を見て物は言いようなんだなと思ったこと

テレビや新聞などのメディアが、「103万円の壁」と見出しや記事でこの文言をよく使用するのを見ます。

この「103万円の壁」の表現をあまり考えずに見ると、「壁」という表現から「壁という大きな障害がある」とか「乗り越えることが大変」などの印象を持ってしまう人がいるのではないでしょうか。

また、過去に「ベルリンの壁」というのがありましたけれど、取り締まっているような抑圧しているような負の印象を「何々の壁」という表現から内容を想像して受け取ってしまう人もいるはずだと思います。

この文言を使うとき、負の文言として使用している人もいることだと思います。さらに利用している人もいるのではないかと思います。その負の文言としての印象の上にロジック(論理)を展開している人もいます。

よく見かける話としては、パートで103万円を超えると配偶者控除が・・・130万円を超えると年金が・・・それらを負担しないといけないからそれ以上稼げない、これが女性の社会進出を抑えている要因だと。

ここで言いたいのは、配偶者控除というのは税の負担を軽くする制度なんです。さらに130万の壁にしても年金で優遇される制度なんです。

配偶者控除とは、一方の配偶者(A)の所得にかかる通常の税金があるとして、もう一方の配偶者(B)の所得が103万以下であれば、配偶者(A)の所得から配偶者控除によって控除されたあとの所得に税金が掛かるものです。

例えば、同棲している人で同じような収入(AとBそれぞれ)であれば払う税金が大きくなります。ということは、結婚している人の方が税の負担が減るわけで、つまり「103万円の壁」ではなく税の優遇措置なんです。だから「103万の優遇」と表現したほうが合うはずです。

消費増税という言い方やめて消費税増税と言って欲しい

shouhizei

ニュースを見ているとアナウンサーが当たり前のように「消費増税」と言っています。ニュースだけに限らず情報番組やネットでも使われています。

この表現の仕方を聞くたびに一般の人に正確な情報を届ける役割のあるメディアが、その役割を放棄しているように感じてしまいます。

消費税増税=消費増税なのか

「消費税」という税を「増税」するので「消費税増税」という表現はしっくりします。日本語としても漢字の文字から意味を理解できる表現です。

それに比べて「消費増税」というのは、消費の増税?消費という税金名があるんでしょうか?百歩譲って確かにこの表現でも消費に対して税金を課すのが消費税なので間違いではなのかもしれません。

しかし、消費に関しては「ガソリン」「アルコール類」なども消費に対して税金が課されるわけですので、これらが増税された場合、この理屈を適用すると「消費」の「増税」ですから「消費増税」と言っても問題ないことになりかねないです。

また、「消費増税」が正しいのなら「住民増税」「印紙増税」など変な言葉を言って使用しても良いということになります。

最後に

マスメディアは、なんでこの表現を使うんでしょうか。何でもかんでも言葉を短縮したくてしたくてしょうがないんでしょうか?疑いもなく使うなんて思考停止しているんでしょうか?

公のメディアだからこそ、消費税増税と見ている人に伝える・言うのは難しいことではないので、正確な情報を伝える役割を果たして欲しいです。

出だしの言葉を否定系で話すのを改善していきたい

相手の話に対して全く否定する返しではないのに「いや、・・・・」と話をしている自分に最近気が付きました。

なぜか、「いや」と言葉のはじめに意味もなくつけているんです。

意識しながら言葉を返しているうちはいいのですが、話に夢中になったり時間がたつと意識して使わないようにしていたのを忘れてしまいます。

そして「いや・・」と最初に否定する単語を付けて話をしている状態に戻ります。

以前は、言葉の最初に「あ」とつけて話をしていたのを誰かに言われて気が付いたことがあるのですが、出だしの言葉に何か発してしまう傾向があるようです。

これを改善するには、やはり話すときに意識して使わないようにしていくしかないのですが、もう癖のようになっているので改善していくのが難しいのではないかと思います。

そして、私と同じように最初に「あ」などをつけて話をする人を見ると気になるんです。ということは、私の話も人によっては気になってしまうはずです。

出だしの言葉って、最初に相手の耳に入る言葉なので重要です。その最初の言葉、自分では気が付かない人もそれなりにいるはずです。

特に否定形の「いや」が最初に発する言葉ですと、ネガティブな印象を与える可能性があると思うで、それを改善していこうという気持ちを書いてみました。

集団的自衛権という名称

憲法に個別や集団だとか書いてあった記憶が全くないんですが、誰がこのような理屈や論理、ロジックを作り出しているのだろうかと思います。

ところで、集団で自衛するのが良くないという評論家やタレントなどを使い、そのようなコメントや評価をするテレビや新聞がありますが、腑に落ちないんです。

そもそも日米安全保障条約で日本の防衛は、日本とアメリカという集団で守るわけですから。

集団的と抽象的な言葉もふさわしい言葉ではないと思います。何々「的」って・・・十人集まると集団ですから日本人が集団で自衛するのもよくないと、どのようにでも解釈できますからね。国家対日本人1人以外だめとか。

別の単語を使う方が良いんじゃないかと思うんですよね。例えば、集団国家自衛権?国家集団自衛権?複数国家集合的自衛権?複数国家参加自衛権?

複数の国が集まって守るわけですから、複数国家集団防衛権でしょうか?

このロジック、日本ではなく他の軍事弱小国家にとって大国の言いなりになるロジックですから、日本が大国であればいいのですが、ウクライナのように一国家では対抗できないとき言いなりになるロジックも含むはずです。

そうなると、また新たに別のロジックを作り出さなければいけなくなります。もっと誰にでもわかるシンプルな考えにしてほしいものです。

格差ではなく貧困が問題のはず

近年、格差格差とそれがいけないとお題になりだしましたが、1千万円の収入と1億円の収入でも格差で、5百万円と1千万円でも格差です。

ここで取り上げた金額の中で5百万円が一番少ない収入例ですが、その金額でも良い生活ができるはずで、3百万円と5百万円の場合も格差がありますが、3百万円でも現在の日本の物価では貧困とは言えません。

問題なのは、格差ではなく貧困のはずなんですけれど、いつの間にか貧困ではなく格差の方を問題にする風潮を感じます。

社会主義・共産主義の「結果の平等」が、自然と社会に浸透しているのでしょうか?

ところで格差より貧困が問題で、その定義が重要なりますけれど、何をもって貧困なのか価値観によって変わります。そこで分かりやすい尺度として現在の生活保護で支給される金額が目安になるはずです。

なぜなら生活保護で支給される金額は、政府が考える最低限の文化的な生活を送るのに必要な金額ととらえることができますので。

そのように考えると生活保護で支給される金額以上であれば貧困ではないのかと言えるのかというと、生活保護には特典があります。準税金のようなNHKの受信料、医療機関に払う診察料、(国民)健康保険料などが免除されます。

となると貧困とは生活保護で支給される金額よりも数割増しの金額をもらえない人になるはずです。現実問題として新卒や再就職でその金額の以下の人も沢山いるはずなのですが、例えばフルタイムなので厚生年金に加入するばずで実際の手取り金額は、生活保護で支給される金額以下になってしまう人もいるはずです。一時的に所得税も引かれますし。

では、そのような人が就職すると生活保護ももらうのか、となるとそのような人はいないはずで、かなり苦しい生活しているのを想像できます。

以上の事から再度貧困の定義を見直して考える必要があるはずです。

「配偶者控除の見直しを検討する」の本当の目的はなんだろうか

リンク先の「女性は働くとバツゲーム」税制の改正に、諸手を挙げて賛成するという記事、配偶者控除を無くすことに賛成する内容で記事タイトルからそれを諸手を挙げて賛成するということで、諸手を挙げることで思考停止したくないので私の思ったことを書きます。

みんな平等を目指すなら個人単位で課税をしていくのが不公平感もなくいいのでしょうけれど、社会としてみると親がいたり子供がいたりして、それぞれ環境が違うわけです。

そして、家族や親族を中心にした助けあいや優遇、また負担があるわけです。

例えば、負担の場合ですと健康保険や年金などの社会保障、また生活保護の問題からもわかるように親族に扶養義務があったりするわけで、全てを平等にした場合、これらも含めた制度すべてを見直す必要が発生します。見直すのを考えるのはいいことだと思います。

それを踏まえたうえで配偶者控除は、本人に適用されるわけではなく働いている人の配偶者の所得に適用されるものなので家族を中心にした優遇制度とも言えます。

夫婦ともに日本人の平均収入を得ている人からすると控除される人に不公平感を抱くかもしれませんが、平均年収の約400万円を得ている女性の場合、週休二日に休日などを踏まえると年間250日(有給は置いておいて)ぐらいが労働時間です。

400万÷250日で1日に1万6千円、時給2千円になります。一方パートやアルバイトで、地域によりますけれど700円後半や800円台の人の人も沢山います。それらの人が、倍以上の賃金になる可能性がないと思います。仮に賃金の総額が同じで働く人数も同じで、パートの賃金をあげようとしたら正規社員の収入は下げ、そしてパートに振り分ける以外に考えられません。

また、配偶者控除を無くすと、その分300万円や400万の仕事が発生して職につけるのか?と考えるとそうならないはずです。現在のように公共工事で無理やり需要を増やして何とか金を回している状態でも、条件のいい仕事が増えているわけではありません。

さらにグローバルな世界になったことで自然の法則が日本にもはっきりと適用されるはずで、賃金はフラットになるべく高いところから低いところへと流れていくことが想定され、日本全体で高賃金になればなるほど海外でも安い賃金の所に仕事がながれていくはずです。

また、配偶者控除を無くすとその分だけ税収が増えると思っているかもしれませんが、制度がなくなったとき一時的に増えても、所得税で払う分が増えるので手元に残る可処分所得が減るわけで、消費できるお金が減るわけですから、その分今までどこかに落ちていたお金が落ちなくなり会社の売り上げは減り経済活動が小さくなるわけで税収が増えるとは思えないです。

さらに、配偶者控除には、「結婚すると場合(状態)によってメリットがありますよ」の性格もあります。他にも結婚すると得られるメリットがありますが、それは、子供ができた時や年金をもらうときで、配偶者控除も数少ない結婚すると得られるメリット(得)になりえるものです。

配偶者控除を無くした場合、それに代わるメリットがないとなると、結婚しなくても事実婚でいいのではないか。もっというとメリットなくなれば、当然結婚制度ってそもそもいるの?と考える人も出てくるはずです。(そこまで考える人はいないかな)

配偶者控除は、立場によって不公平感があるものですが、例えば子供に対する扶養控除など同じ収入でも子供がいると所得税に違いがでてきますけれど、この手の不平等な政策もときには必要だと考えています。

配偶者の片方が仕事につかず家庭にいて優遇されるなど不公平だと思いますが、全員が正規社員として仕事に就けるわけではないうえに、子供を産んでなるべく多くの時間一緒に過ごして育てたいという人にとってメリットがあります。

日本が一番に取り組むべき問題は少子化だと私は思っているので、日本の社会政策として少子化に対して効果があると思われるものは不公平でも実施していくべきだと考えています。そのうえで配偶者控除は、少子化にどのような効果があるのか分かりませんが、結婚すると得られるメリットを考慮するとあるのではないかと推測しています。

ただし、この制度が絶対に良いというわけではなく代替手段でもっといいのがあれば変更していけばいいという考えです。

そもそもマスコミが使ったのか政府が使ったのはわかりませんが、「働く女性を支援するため」と大義名分がありますが、この手の言葉はアメリカの正義と同じで本当の目的は違うはずで、「たくさん税金が欲しい」というのが目的だと思います。

「働く女性を支援するため」に配偶者控除を無くすってのも変な言葉です。パートやアルバイトで働いている女性(人によってはパートと多くの時間子育てに費やしている人)を支援するため配偶者控除を廃止して世帯で所得税を多く払ってもらいますってなりますし。

「捜査関係者への取材で」って本当に取材なのかなと思う

ニュースを見ていると「捜査関係者への取材で・・・」って見るんですが、他の局でも同じことを言っているのを見ると、取材ではなく関係者が特定の人物集めて喋っているんじゃないかと思ってしまうんです。

ところで、仕事上知りえた情報には守秘義務があると思うんですけれど、公式発表ではなく裁判でもなく個人の判断で勝手に話して良いのかと常々おもうんですよね。

非公式の情報で、しかも片方の情報を一方的に報道してするとなると情報操作ができてしまうんじゃないかと思うんです。

特に気になるのが、身柄を拘束され外部と接触できない状況の中、取り調べの状況がマスコミによる「捜査関係者への取材」によって一方的に出てくることです。

裁判員裁判によって、選ばれる人も一方的なニュース情報を見てしまい先入観も入る上に行政が司法の結果に影響を及ぼす可能性が高いですし。

裁判での公正な判断に先入観の排除は必要なことで、そのために守秘することは重要なのにルールを守れとよく言うマスコミがそれを破っていることに加担するなんておかしな話です。

ウクライナの領土とアメリカvsロシアの対立

ウクライナは、ソ連崩壊後の独立で国の安全保障(領土を保全する)を約束をしてももらう代わりに国内の核兵器を放棄(移したり破棄したり)することを英米露と交わしています。(ブタペスト覚書)

それが、各国の思惑によって簡単に反故にされてしまう現状を見ると、いくら約束や取決めをしていても、力なき国は、力ある国と約束をしていても、それはあってないようなものなのだと痛感されられます。

その力というのは、経済力であったり軍事力であったりするわけです。これを日本にあてはめて考えると色々と思うこともあります。

今回の欧米とロシアの対立、本格的な紛争や戦争になる可能性は低いのではないかと推測しています。仮に発展してあったとしても一瞬。

それは、エネルギー源をロシアに頼っているヨーロッパの多くの国が大きく前に踏み出せないという理由だけではなく、裕福な暮らしをしたロシアの人達は、欧米から豊かになるための食料や工業製品を得ているわけです。

その豊かな生活を維持するためには、お金の価値が安定していないと享受できません。対立が大きくなればなるほど、ロシアの貨幣価値が安定しなくなり株も為替もやばくなるはずです。そして世界、欧米の経済にも大きな打撃があることも想像がつきます。

この対立が大きくなればなるほど、お互いに得られるメリットがない中、どこで手打ちをするのだろうか?また大国はどのように考え動くのだろうかと、これからの日本の安全保障のために観察して学ぶことが必要だと思います。

 

ぼーっと何も考えずにテレビを見て過ごすことができるって良い

「これもあれも」と毎日やることに取り組んでいると消化できない日が発生します。実際には、ほぼ消化できない日ときの方が多いです。

その結果でしょうか、毎日時間に追われているような感覚になります。

そのような中、やることはありますが取り組まず「ぼー」っとテレビを見て笑ったりして時間を消費したのですが、なぜか気分がいいんです。

やることあるのにテレビで時間を消費したら、その減った分を取り返すために頑張らないといけないと普段なら思うので精神面に負担がかかるんでしょうけれど、それがないんです。ないと書きましたが少しはありますけれど。

その気持ちが楽になっている理由は何だろうかと少しばかり考えてみると、取り組むことの取捨選択と時間の使い方、そして小さいゴールを決めたのが影響しているじゃないかと思います。

あれもこれもと思いながら取り組んでいたことも、だんだんとこれはやめよう・やらないことにして取り組む範囲を少なくして、時間の使い方も杓子定規のような一時間これをするあれをするなどやめて20分や30分など日によって柔軟な使い方にしてきました。

頑張らないといけないのは確かですが、できることには限りがありますからできないことはしない・無駄に頑張らなくもいいように意識しながらしている影響なのか、若干のゆとりが心にできてきたのではないかと思います。

でも、心に若干ゆとりが出てきた一番の原因は、小さいゴール(目標)設定と大きな目標設定を設けるようにしていたなか、大きな目標だけかなりぼやけていたのが、ここ1ヶ月ぐらいで若干形が見えてきたことなのではないかと思います。

何をどう頑張ったらいいのか分からなかったことに対して、やるべきことが見えてきた・先が見通せるような気持ちになってきたといったところでしょうか。

先が見えないと心は不安になりますから。見えた方が良いんです。若い時は根拠のない自信というのがそれを埋めていたのでしょうけれど、それも弱まっているんですね。

ただし、先が見えないことによって如何に対処するか乗り越えるかということが、がんばる原動力にもなりますから一概に善し悪し判断できませんけれど、精神面にはよろしくないんでしょう。